読み比べ-怪人二十面相

江戸川乱歩の『怪人二十面相/The Fiend with Twenty Faces』は、少年探偵団シリーズの一作目で、英訳版の表紙にも"THE BOY DETECTIVES #1"とあります。"fiend"を英和辞典で引くと、魔神、悪霊、鬼、魔王といった訳語が載っています。何かの「名人」という意味もあります。ちなみに『プログレッシブ和英中辞典』では、怪人二十面相の訳として"a multi-faced monster"を当てています。

『少年倶楽部』で『怪人二十面相』の連載が始まったのは、実に昭和11(1936)年のことです。しかし、そのストーリーは今でも決して古さは感じさせません。もう70年以上前の作品が英訳されて、英語圏の読者にも読まれることになるというのは、子供の頃に読んだ一読者としても、非常に感慨深いものがあります。

挿絵がシュールな独特の雰囲気で、最初に登場する羽柴壮一が「世界のナベアツ」にそっくりです。そんなことはどうでもいいのですが、冒頭に江戸川乱歩と少年探偵団シリーズについての解説があり、外国の読者に便宜を図っています。日本人読者にとっても、この解説は参考になります。私自身、少年探偵団シリーズは小学生の時に何冊も読みましたが、同シリーズについてのまとまった評論を読んだのはこれが初めてでした。

英訳本は、福岡の黒田藩プレスという出版社から2012年に刊行されています。黒田藩プレスは、日本の小説の英訳本を他にも多く出版しています。訳者はDan Luffeyという人です。以下の記述は、原作本については『怪人二十面相』(ポプラ社、2006年刊)を参照しました。

原作の尊重

原作では、地の文のところどころで作者が「読者諸君」と呼びかけています。小説の作者が読者に直接呼びかけるというパターンは、今ではもう古い手法ですが、訳者はこれを省略することなく、"Intrepid Reader"と再現しています(intrepidは「勇敢な」という意味)。逆に、さしたる必然性もないのに原作を改変する訳者ほど、翻訳の質も悪い気がします。外国人には理解されにくい事物について説明を加える程度の改変はどうしても必要ですが、英語での説明が難しい単語を省略するような安易な翻訳をしている作品は、たいてい他の部分にも粗が見られるものです。

"Intrepid Reader"という訳語を選んだ理由については、http://publishingperspectives.com/2012/06/on-translating-a-superstar-rampos-japanese-ya-crime-series/に訳者のインタビューが掲載されているので、ぜひ一読されることをおすすめします。訳者は、「諸君」という言葉の意味をとことんまで考えた上でこの訳語を選んでいることがわかります。

この訳からは、原作だけに限らず、もっと広く日本文化そのものを尊重する姿勢が読み取れます。その一つの例が人名で、Akechi Kogorōというように、姓・名の順番で書かれています。長音記号が付いているのも親切です。日本在住の外国人が経営している出版社だけあって、できるだけ正確な日本語を伝えようと努力しているのでしょう。

時代背景

昔の小説を翻訳する場合には、時代の変化を考慮して原作を改変する必要が出てくる場合もあります。過去の事物についての説明を加える場合などがそうですが、貨幣価値の変化により、通貨の額の訳し方が問題になる場合もあります。特に戦後はインフレが進んだので、『怪人二十面相』のように戦前に書かれた本の場合、作品中の貨幣価値は現在とは大きな開きがあります。

最初の事件で怪人二十面相が狙うダイヤモンドの価値は、英訳本ではtwo million yenですが、原作では20万円です。これは別に誤訳というわけではなく、現在の貨幣価値に合わせようとしたのでしょう。ところが、原作の脚注によると、20万円はなんと現在の約4億円に当たるそうです。確かに、200万円では二十面相が狙うにしてはしょぼい額の宝石です。

他のところでは、エレベーターボーイの買収代が100円(現在の20万円)から1000円、二十面相の身代わりの日当が50円(現在の10万円)から5000円にそれぞれ変更されています。原作では身代わりの日当の方が安いのですが、英訳本では逆になっています。身代わりの方が危険ですから、その日当の方が高くなるのはうなずけますが、それにしても、今の感覚でも5000円では安すぎるという気がします。まあ楽な仕事(ネタバレになるので詳細は秘)で食事込みなので、その程度でいいと訳者が考えたのかもしれません。

原作の数字をそのまま訳すと、脚注などで説明を加えない限り、事情を知らない外国の読者が混乱するのは間違いありません。このあたりの数字は、現在の貨幣価値と完全には一致しないまでも、ある程度は今の感覚を反映した数字を採用したというところでしょう。

時代を感じさせるものと言えば、伝書鳩の他に、紙芝居が登場します。紙芝居は日本独自の文化で、特に定訳はないようですが、英訳本では"telling a story with picture cards"と説明されています。紙芝居が外国でももっと有名になれば、そのうち"kamishibai"で通用するようになるかもしれません。

語り口調

作者が読者に呼びかけるような語り口調がこの作品の魅力の一つで、訳者は、この雰囲気が英語でも感じ取れるように訳したとのことです。原作では地の文に一人称は出てきませんが、英語では主語が必要なので、作者が"I"として登場します。

作者だけでなく、登場人物の口調についても工夫の跡が見てとれます。たとえば、二十面相が手下に向かってこう呼びかけるシーンがあります。

Your service shall not been forgotten.

これは話者の意志を表す用法で、主語は"Your service"ですが、実際は話者である二十面相の意思を表しています。普通の英語なら"I will not forget your service."となるところです。"You shall……"のように、二人称を主語にして話者の意思を表す場合もあります。これは古風な形式張った表現で、現在ではあまり用いられない用法です。『ランダムハウス英語辞典』では「通例,目下の者や子供に対して用いられる」とあります。英和辞典を見ると、「~させてやる」「~してもらう」といった訳語が並んでいます。「覚えておいてやろう」とでも言わんばかりの、二十面相のもったいぶった姿が目に浮かぶような訳です。

ところが原作では、このセリフは「きみたちのはたらきはわすれないよ」で、英訳版に比べるとずいぶんフレンドリーな感じです。ここは悪党の親玉らしいイメージを出そうとしたのでしょう。

イディオム

英和翻訳では、日本語の決まり文句をいかに自然に訳文の中に盛り込むかで訳者の力量がわかると言われます。同じことが和英翻訳にも言えると思います。『怪人二十面相』の英訳本では、原作を単に逐語的に訳すのではなく、英語の慣用句を用いた訳が多く登場します。こういうところからも、訳者の苦心が読み取れます。

たとえば、「なんのぞうさもない」を"like taking candy from a baby"と訳しています。これは非常に簡単なことを表す言葉で、日本語でも似た言葉があります。まさに「赤子の手をひねるよう」というのがぴったりな訳でしょう。

また、小林少年が怪人二十面相を出し抜いたことを"turned the tables"というイディオムを使って表現しています。"turn the tables"は、文字通りには「テーブルを回す」という意味ですが、これはチェスなどでゲームの途中にテーブルを半回転させ、勝ち負けを正反対にしてゲームを面白くさせた慣習から来ています。つまり「形勢を逆転させる」という意味です。

その他、怪人二十面相の裏をかくことを"pull the wool over old Twenty Face's eyes"と訳しています。この場合のwoolとは「かつら」のことで、"pull the wool over someone's eyes"とは、かつらを下に引っ張って目を覆う、つまり「目をくらます」「たぶらかす」という意味です。

日本語の慣用句が英語と一致するものとしては、「袋のネズミ」が"a rat in a trap"と訳されている例があります。"be trapped like a rat"は、文字通り「袋のネズミ」という意味です。

まとめ

ストーリー自体は子供向けとは言え、単語はかなり難しいものも出てきます。原作とは違い、翻訳本は大人の読者も対象にしているようです。原文がやさしいことを反映して、文章そのものはさほど難易度は高くないのですが、口語やスラングが多く登場するので『時をかける少女/The Girl Who Leapt through Time』よりは格段に難しいと言えます。その分、挑戦のしがいがあるはずです。

改めて読み直してみると、子供の頃に読んだ時にはわからなかったことに気づきます。二十面相は、さまざまなところに自分の手下を潜入させる程の力を持っていながら、一方ではずいぶん間抜けなところがあります。「そんなにうまく行くか」と突っ込みたくなるところもあります。ですが、何も小難しい本を苦労して読むばかりが英語の勉強ではありません。子供の頃を思い出しながら英語を読むのも楽しいものです。英語で話す二十面相は、原作以上に魅力的です。少年探偵団シリーズの他の作品も、引き続き英訳されることを望みます。

怪人二十面相/The Fiend with Twenty Faces

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