読み比べ-異人たちとの夏

山田太一の『異人たちとの夏/Strangers』は、主人公の中年のシナリオライターが、何十年も前に死んだはずの両親と再会し、不思議な体験をする物語です。山田太一の作品の中では初めて英訳されました。

英語圏の読者には"ghost story"として紹介されましたが、単純なホラーを期待した人は失望したようです。むしろ無情さ、はかなさ、切なさを描いた作品で、そういう意味ではきわめて日本的な物語と言えるでしょう。日常の中の奇妙な出来事を描いている点や、無駄を省いた文章などから、英語圏の読者の中には、村上春樹に似ているという印象を持つ人が多いようです。

以下の記述は、英訳本はVertical, Inc.のハードカバー(2003年出版)、日本語版は新潮社のハードカバー(1988年出版)を参考にしました。

セリフの訳し方

寿司職人である主人公の父親は、「あったりめえよ」という具合に、歯切れのいい東京弁で話します。訳者はこうしたセリフを、"Whadda ya mean?"(What do you mean?)というようなアメリカ英語の口調に訳しています。また、父親のセリフの中に"that-a-way"という言葉が出てくるのですが、これは"that there way"の短縮形で、意味は"that way"と同じです。アメリカ中西部や南部で使われる方言だそうです。

ところがAmazon.co.ukのレビューを見ると、このアメリカ英語はイギリスの読者には不評のようです。イギリスの新聞のGuardian紙がこの本の書評を書いていますが、その中でもセリフの訳し方に苦言を呈しています。
http://www.guardian.co.uk/books/2005/mar/05/featuresreviews.guardianreview12

To have a Japanese sushi chef from the 1940s say "Yo" as a form of greeting is ludicrous

「1940年代から来た日本の寿司職人に"Yo"と挨拶させるのはこっけいだ」(実際には主人公の両親が死んだのは1951年)とあります。"Yo"というのは主にアメリカ英語のインフォーマルなあいさつで、イギリス人は、ヒップホップの黒人の若者が"Yo"と言っているところを想像するのかもしれません。"Yo"は、例えば主人公が初めて父親に会う場面で使われています。浅草演芸ホールで、父親が主人公に声をかけるシーンです。

“Yo,” I heard a voice say very close by.

「よう」と近くで声がした。

何と、このセリフは原作でも「よう」なのです。人に呼びかける時の"Yo"は、まさに日本語の「よう」に相当する言葉です。他のところでは、「おう」の訳にも"Yo"が使われています。歯切れのいい東京弁をなんとかして英語に移そうと苦心した末に、元の日本語を生かした訳にたどり着いたのでしょう。これについて訳者を責めるのは酷だと思います。Amazon.comのレビューではアメリカ英語の訳に対する不満は見られないので、アメリカ人は別に気にならないのかも知れません。

著者がもともとシナリオライターということも関係しているのでしょうが、原作では簡潔で無駄を省いた会話が多く、まさにテレビドラマのような印象を与えます。セリフだけで、誰が誰に対して言ったのかが書かれていない行も少なくありません。英訳では、そうしたセリフに"... said."と付け加えている文もあるのですが、その過程で誤解が生じることがあります。

主人公と両親がいる場面で、鰻屋の店員に「三串下さい」と言うセリフがあります。原作ではこのセリフの発話者は不明ですが、英訳では主人公の父親が言ったことになっています。しかし、丁寧な言葉を使っているところから見て、これは主人公が言ったものと考えるべきでしょう。父親のセリフであれば、「おう、三串くれ」とでもなるはずです。

また、主人公とテレビ局のプロデューサーの会話の中で、次のようなセリフがあります。場所は主人公のマンションで、一対一の私的な会話です。

“Let me express my deepest gratitude for all you have done for me in the past.” Mamiya said very formally.

「本当にお世話になりました」と間宮がいった。

英訳は元の日本語とは印象が異なり、やや大げさです。"very formally"とありますが、「お世話になりました」は特別フォーマルな挨拶ではなく、日常会話でもよく使う形式的な挨拶の一つと言っていいでしょう。ここは"Thank you very much for all you have done for me."くらいでいいのではないでしょうか。日本語の会話がどれだけフォーマルであるかを読み取るのは、翻訳者にとっても難しいことなのかもしれません。

ネタバレになるので詳しくは書けませんが、女性の登場人物が男言葉になる部分があります。原作では凄みを感じさせるところですが、もちろん英語に訳すのは不可能で、これは致し方ないところです。

「異人」と"stranger"

元のタイトルに使われている「異人」という言葉ですが、この場合は「普通とは違う人」「別の国の人」という意味です。主人公の両親は「異界の人」、要は「幽霊」だということですが、それでは余りにも身も蓋もない言い方になってしまいます。

一方英語タイトルの"stranger"は、「知らない人」「他人」「客」「よその土地から来た人」「部外者」などの意味があります。長い間会わなかった人を誇張してこう呼ぶこともあります。主人公の両親は、あの世からこの世に現われたstrangerであり、主人公と久しぶりに会ったという意味でもstrangerです。

もっとも、"stranger"は両親だけのことを指すのではありません。Amazon.comのレビューに「主人公の生活の中にいる人はみなstrangerのように思える」という書き込みがあり、なるほどと思いました。主人公はあまり他の人との関わりを求めてはおらず、主人公にとっては、元の妻や子供も含めてみなstrangerであり、主人公自身も、他の人から見ればstrangerなのでしょう。

主人公と両親の会話では、strangerという言葉が実に象徴的に使われています。両親の家から帰る主人公に、父親はこう声をかけます。

"Don't be a stranger, now."

「また来いよな」

"Don't be a stranger."は、「また近いうちに来い」という意味の決まり文句です。また母親は、主人公に向かってこう言います。

"Oh, stop acting like such a stranger."

「水くさいこといわないでよ」

こびように、むしろstrangerを否定する形で使われています。主人公に対する両親の感情がよく現われているセリフです。両親にとっては、主人公は決してstrangerなどではないのです。言葉の意味をいろいろ考えさせるという意味では、"Strangers"は実に意味の深いタイトルだと思います。

まとめ

難易度はやや高めです。構文が複雑で、意味を取るのに苦労する文が少なくありません。やたらと長い文章が多いのも閉口します。単語についても、口語がきわめて多く登場するので難易度は高めです。

物語自体は、個人的にはとても気に入りました。最後は一体どうなるのだろうという期待感で一気に読めるのは、英語の勉強の材料としては望ましいと言えるでしょう。ただ、会話に不自然な点があるというレビューが目立つので、ネイティブにとっては気になるところがあるのかもしれません。

異人たちとの夏/Strangers

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