読み比べ-涼宮ハルヒの憂鬱

谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱/The Melancholy of Haruhi Suzumiya』は、一大ブームを引き起こしたライトノベルです。アニメ化もされ、大ヒットした作品ですから、何の知識もない状態で英語版から初めて読むという人は少ないと思います。むしろ、ストーリーは頭に入った状態で「あのシーンがどう英訳されているか」という関心を持って読む人がほとんどでしょう。その点では取っつきやすい作品と言えます。以下の記述は、英訳書はペーパーバック(Little, Brown & Companyより2009年に出版、Chris Pai訳)、原作本は角川スニーカー文庫(2005年出版)を元にしています。

異世界人=slider?

涼宮ハルヒが登場するシーンの「ただの人間には興味ありません」という有名なセリフの中で、「異世界人」は"slider"と訳されています。この単語に戸惑う人は少なくないと思います。『ランダムハウス英和大辞典』、『リーダーズ英和辞典』、『リーダーズ・プラス』 などの大きめの英和辞典や、Merriam-Webster's Collegiate Dictionary、Webster's New World Dictionaryといったネイティブ用の英英辞典を見ても、それらしい意味は載っていません。

そこで、試しにネット上のUrban Dictionaryで調べてみると、"slider"の意味が載っていました。"A person who travels through a wormhole to alterante(alternate?) but parallel universes."とあります。
http://www.urbandictionary.com/define.php?term=slider
ここには"Quinn Mallory was the orignial slider."という例文が載っています。Quinn Malloryとは、1995年から2000年にかけてアメリカで放送されたテレビ番組"Sliders"の登場人物です。この"Sliders"は、パラレルワールド間を移動する"slider"と呼ばれる人たちを描いたSFです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sliders
ここから、異世界人をsliderと訳したのでしょう。今のところsliderは、まだ紙の辞典に載るほど一般的にはなっていないようですが、SFの世界では既におなじみの言葉なのかもしれません。

「萌え」について

ライトノベルには、普通の文学作品にはあまり出てこないジャンルの言葉が多く登場します。ポップカルチャーに関わる言葉がその一例ですが、『涼宮ハルヒの憂鬱』の中でも重要な意味を持つ単語に「萌え」があります。これはそのまま"moe"として登場し、さらに"turn-ons"と補足されています。"turn-on"とは、「興味や刺激をかきたてる人や物」という意味です。"moe"は、Wikipediaにもさまざまな言語で掲載されており、既に国際語となっていると考えてよいでしょう。

この「萌え」の象徴として登場するキャラクターが朝比奈みくるですが、Amazon.comに掲載されている本作品のレビュー(http://blog.figment.com/2010/10/page/6/からの転載)の中で、少し気になる記述を見つけました。

The book worm claims to be an alien, the klutz says she is a time traveller, while the charming young man purports he is an esper.

この評者は朝比奈みくるのことを"klutz"と評しています。klutzはアメリカの口語で、英和辞典には「不器用な人、とんま、うすのろ、ばか」といった意味が並んでいます。英英辞典を見ると、Oxford Advanced Learner's Dictionaryでは"a person who often drops things, is not good at sport(s), etc."とあります。これくらいならまだ可愛げがありますが、COBUILD Advanced Learner's English Dictionaryでは"You can refer to someone who is very clumsy or who seems stupid as a klutz."とあります。"who seems stupid"というのはかなりひどい表現で、日本でいう「ドジっ娘」のニュアンスはありません。もしかすると、アメリカ人は朝比奈みくるに対して、日本人が感じるような「萌え」をあまり感じないのかもしれません。そもそも、欧米では「ドジっ娘」という概念すらないという話を聞いたことがあります。Wikipediaにも「ドジっ娘」の項目がありますが、今のところ(2013年11月現在)、日本語版以外ではドイツ語、韓国語、中国語だけです。

そのほか、キョンが長門有希に対して言った「眼鏡属性」という言葉は、"glasses man"と訳されています。これも辞書を引いても出てきません。"tit man"(おっぱいフェチの男)、"legman"(脚フェチの男)という用法があるので、そこからの造語でしょう。

ライトノベルのお約束

ライトノベルやマンガの登場人物には、ある種パターン化した行動様式があります。キョンがハルヒに向かって言うセリフに、次のようなものがあります。

そんな心から怒るんじゃなくて幼馴染みが照れ隠しで怒っている感じで頼む。

"Could you say that again, except this time sounding like an old friend just pretending to be angry?"

日本語から英語には訳せても、この英語からこの日本語訳を作れる人はまずいないでしょう。日本語からは、いわゆるツンデレの幼なじみがわざと怒ってみせる、というシーンが目に浮かびます。「王道」とも言えるシチュエーションです。一方英語では「怒っているふりをする昔の友人」とは一体どういう意味なのか、と考えてしまいました。「幼なじみ」は普通"childhood friend"ですが、"old friend"としたのはなぜでしょうか。おそらく何らかの意図があるのだと思いますが、訳者に聞いてみたいところです。なお、この部分は日本語では地の文ですが、英訳ではセリフの扱いになっています。

またハルヒは、「謎の転校生」に対して異常なまでの関心を示していますが、これはもちろん、眉村卓のSF『なぞの転校生』からの流れでしょう。この「謎の転校生」は、"mysterious transfer student"とそのまま訳されています。日本では学園ものの定番である「謎の転校生」ですが、欧米ではどのようなイメージで受け取られるのでしょうか。

口調の違い

高校が舞台の小説だけあって、dunno(don't know)、'course(of course)、'fess(confess)、kinda(kind of)、'sup(what's up)といった省略形や、公式ではない会話がよく出てきます。略式の会話では、「すまん」という谷口のセリフが"My bad"と訳されている例があります。これは十代の若者が使う言葉で、正確には"My fault"とすべきところです。高校生らしさを出すための訳者の工夫でしょう。

一方、古泉一樹のセリフでは、こうした省略形やくだけた言葉は使われていません。cannot、do notのように、短縮形を使わずに話すこともたびたびです。彼のバカ丁寧な口調が忠実に再現されており、キョンやハルヒとの口調とは対照をなしています。

まとめ

全般的に見て、原作の文体がうまく訳されていると思います。単語の難易度は低めで、構文もさして難しくはありません。ちなみに対象読者は15歳以上となっています。長門有希が情報統合思念体の説明をするところはやや難しく感じますが、これは日本語でも理解しにくい部分なので、わからなくても気にする必要はありません。初めて英語本に挑戦する人にもおすすめできます。

なお英訳版は、カラーページやモノクロの挿絵も日本語版そのままに再現されています。日本語版と同じイラストの表紙がいいという方は、ハードカバーを購入するとよいでしょう。

涼宮ハルヒの憂鬱/The Melancholy of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの溜息/The Sigh of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの退屈/The Boredom of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの消失/The Disappearance of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの暴走/The Rampage of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの動揺/The Wavering of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの陰謀/The Intrigues of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの憤慨/The Indignation of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの分裂/The Dissociation of Haruhi Suzumiya
涼宮ハルヒの驚愕/The Surprise of Haruhi Suzumiya

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