読み比べ-キッチン

キッチン/Kitchen』は、よしもとばななのデビュー作で、国際的にも高い人気を得た作品です。映画化もされています。以下の記述は、原作は新潮文庫(2002年)、英訳はFaber and Farber Limitedのペーパーバック(2001年)を元にしています。訳者はMegan Backusです。

イメージの違い

英語版を読んだ後で日本語版を読むと、文章がこなれていないという印象を強く受けます。英訳と日本語で、これほど文章の雰囲気が違うのかとびっくりしました。原書では、言葉の選択でやや甘いところがあるのが気になります。たとえばこういうくだりがあります。

 世の中に、この私に近い血の者はいないし、どこへ行ってなにをするのも可能だなんてとても豪快だった。

I was tied by blood to no creature in this world. I could go anywhere, do anything. It was dizzying.

「豪快」とは、『広辞苑』によれば「堂々としていて、見て気持よいこと」です。この場合、一体何が「豪快」なのか、日本語ではちょっとよくわかりません。ところが英語では、「豪快」の訳は"dizzying"となっています。これは「目まいがするような」「くらくらするような」といった意味です。本人の感情ですから、これならわかります。ほかにも、こういうくだりがあります。

 青い沈黙は涙が出るほど息苦しくせまってきた。うしろめたい瞳をふせた雄一は、カツ丼を受けとる。生命を虫食いのようにむしばむその空気の中、予想もつかなかったなにかが私たちを後押しした。

In the ensuing silence, I felt my chest compress so tightly that it made me want to cry. With downcast eyes, Yuichi guiltily took the katsudon. But in that tomblike atmosphere we got a boost from something I could not have forseen.

「青い沈黙」は"ensuing silence"(その後の沈黙)、「生命を虫食いのようにむしばむその空気」は"tomblike atmosphere"(墓場のような雰囲気)と、いずれも別の言葉に置き換えられています。日本語をそのまま英訳したら、おそらく英語圏の読者には何のことだか理解できないでしょう。

『キッチン』で特徴的なのは、主人公・みかげのモノローグです。ああでもないこうでもないと言葉足らずに紡ぐ文章から、みかげの気持ちがぼんやりと伝わってきます。それがこの『キッチン』の魅力の一つなのでしょうが、訳者は、その訳にずいぶんと苦労していることが見てとれます。たとえば、みかげのモノローグに、次のようなものがあります。

 涙があんまり出ない飽和した悲しみにともなう、柔らかな眠気をそっと引きずっていって、しんと光る台所に布団を敷いた。

Steeped in a sadness so great I could barely cry, shuffling softly in gentle drowsiness, I pulled my futon into the deathly silent, gleaming kitchen.

「涙があんまり出ない飽和した悲しみ」というのはちょっとわかりにくい表現ですが、英訳の「あまりにも悲しすぎるのでほとんど泣くこともできない」なら理解できます。このように訳者は、いたるところで言葉を付け加えて話の流れを補強しています。

そのほかにも、訳者はかなり原作から離れた工夫もしています。バスの中で出会った少女について、"The little girl, whose face epitomized “grandchild,”..."と描写するくだりがあります。みかげは、この少女は一緒に乗っている女性の孫だと推測します。「孫の典型のような顔をした少女」というフレーズが気に入ったのですが、原作を読んでみると「(おばあさんと)顔がそっくりなので孫らしい彼女」となっていたのは拍子抜けしました。ここなどは、訳者の工夫がうまく生きていると言えるでしょう。

『ムーンライト・シャドウ』の最後では、主人公が死んだ恋人に呼びかける文章の前で、数行分がばっさりカットされています。この部分は、確かに蛇足という感が否めません。これはやはり訳者が必要ないと判断したのでしょう。このように、英訳ではかなり原作に手を入れています。

無国籍性

この作品には、日本ならではの事物はそれほど登場しません。ストーリーに特に関係があるのは豆腐料理からカツ丼への流れくらいですが、それらの知識がなくても、理解を妨げるほどではないでしょう。登場人物の行動にしても、日本社会だからそうなるという必然性があるわけではありません。さらに日本の中でも、ある土地と密接に結びついた話ではありません。この作品の舞台は東京ですが、東京の街の描写はほとんどなく、わずかに、引っ越しの挨拶状の住所に東京と記してあるくらいです。事実上どこが舞台であっても成立する話であり、その無国籍性が、世界で人気が出た要因の一つでしょう。

主人公のみかげが、雄一に「うなぎパイ」を土産に買ってこようかと提案するシーンがあります。それに対し、英訳本では雄一はこう答えます。

You can buy those at any food stand.

最初にこれを読んだときは、うなぎパイが果たして「どこの食料品店でも買える」ものだろうかと、不思議に思いました。ところが元の文章では、「あれは東京駅のKIOSKにも売ってるんだぞ」とあります。「東京駅でも売っている」とそのまま訳しても問題はなさそうなのに、なぜ訳者は"any food stand"とあえて一般化したのでしょうか?

うなぎパイは静岡県浜松市の名産品ですが、確かに東京駅であれば売っていてもおかしくありません。外国の読者にはそうした知識はありませんが、そこまで説明する手間を省くために、「どこでも売っている」としたとも考えられます。ですが、そんなことを言えば、そもそもうなぎパイ自体が外国には知られていないはずです。事実英訳では、雄一のセリフとして、"You mean those coiled pastries?"という原作にはない文をわざわざ付け加えて、うなぎパイを知らない英語圏の読者のために説明をしています。それなら、うなぎパイが特定の地方でしか手に入らないことについても、同様に説明を付け加えてもいいはずです。

なぜこう訳したかは訳者に聞いてみなければわかりませんが、訳者の意図はどうあれ、このことによって「東京駅」という、外国の読者にも強い印象を与えるであろう地名がぼかされ、どこにでもある物語だという印象が強まったのは確かだと思います。逆に、原作では「I市」となっているところを、英訳では"Isehara"と具体的な地名に直していますが、伊勢原は東京ほどには有名ではないため、特別な注意は引かないと思います。

原作にあった無国籍性が、翻訳で薄められているところもあります。原作では、若い男女が、いきなり互いを下の名前の呼び捨てで呼び合うようになるのは読んでいて違和感があります。それが逆に作品の魅力になるとも言えるのですが、英訳では、日本語の記述とは関係なく、ファーストネームで呼ぶのが普通であるため、日本語で読んだ時の新鮮な印象は薄れてしまいます。

上述の通り、作品内での日本社会の印象はさほど強くないのですが、それでもやはり英米との違いが如実に表れている点もあります。キリスト教世界では、神は唯一絶対の存在なので、"God"と大文字で記します。一方、日本の神は"god"、あるいは"gods"です。この英訳でもそうなっていますが、それだけにとどまらず、間投詞まで"My god"としてあるところは芸が細かいと感じました。普通は"My God"です。

まとめ

夏目漱石や芥川龍之介などの作品では、本人の筆致をいかに忠実に訳すかが問題になります。ところがこの『キッチン』では、直訳では理解されにくいところを、いかに英語圏の読者に理解できる文章に直すかという工夫が必要になります。単なる日本語と英語の橋渡しという役割を超え、訳者は自分の感性で文章を再構成しているわけで、問われる訳者の力量が、漱石の作品などとは違う気がします。

英文自体は難しくはありません。単語の難易度も低めです。みかげが語る物語の雰囲気は変わってはいますが、日本語で『キッチン』を読んで感動したという人であれば、英語で読めばさらに感動を得られるでしょう。逆に、ちょっと自分には合わないと思った人でも、英語で読めばまた違った印象が得られると思います。

キッチン/Kitchen

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