読み比べ-砂の器

砂の器/Inspector Imanishi Investigates』は主人公の今西という中年の刑事が殺人事件の犯人を追う姿を描いた作品で、松本清張の社会派ミステリーの代表作です。何度か映画化やテレビドラマ化もされています。

翻訳本はSoho Pressというニューヨークの出版社から刊行されています(Beth Cary訳)。英語版では、冒頭の「トリスバーの客」の第1節は丸ごとカットされており、死体発見現場から始まります。主人公が解剖に立ち会うシーンなども削られています。それ以外にも、話の途中で数行カットされている部分が多々ありますが、翻訳されていない部分は全体の流れとは関係ない部分がほとんどなので、ストーリーを追う妨げにはなりません。なお以下の記述は、原書は新潮文庫(1990年出版)、翻訳本はハードカバー(1989年出版のFirst U.S. Edition)に基づいています。新しい版では訳が変わっている可能性もありますので、その点お含みおき下さい。

文化・習慣の違いに対する配慮

最初に事件が起きるのは東京の蒲田です。この事件の捜査で、蒲田を通るMekama Line(東急目蒲線、現在は東急多摩川線)、Ikegami Line(東急池上線)の沿線で聞き込みをするという記述が出てきますが、東京の地理を知っていれば、こうした情報もすっと頭に入ってきます。また今西は捜査のために秋田から島根まで奔走しますが、かなり広範囲にわたって国内を移動していることがわかります。外国の小説を読む場合、こうした背景知識がないとストーリーの理解が妨げられることがあります。日本の小説を英語で読むことの利点はここにあります。逆に言えば、英語で『砂の器』を読んでいる外国人も、日本に関する知識がないと理解しづらいということになります。

そうした読者のために、翻訳本には、原書にはない補足が加えられています。たとえばこの本には「トリスバー」が登場しますが、原作ではこれについてはなんの説明もありません。しかし翻訳本では"Torys bar(one of a chain of cheap bars)"と説明が加えられています。

また「入り口の狭いおでん屋」は"a narrow bar that served steaming hot oden, vegetables and dumplings simmered in a flavorful broth"です。おでんを「風味のいいスープで煮込んだ野菜や団子」と説明するだけでなく、それが湯気の出るほど熱いものであるということを同時に伝えています。

このように詳しく説明している言葉がある一方で、あえて簡略な記述にとどめているものもあります。「びん詰の塩辛」は"salted fish"です。明らかに原書とはニュアンスが異なりますが、これは別に誤訳というわけではないでしょう。"salted and fermented fish guts"(発酵させた塩漬けの魚の内臓、研究社『新和英中辞典』による塩辛の訳)などと訳したら、塩辛を知らない外国の読者には、かえってどんなものか想像できなくなると思います。

こういった特定の事物に限らず、人の行為にも文化の違いは現れますが、その点に関する説明もあります。主人公が亀嵩の桐原老人の所を訪ねた時のことです。事情聴取を終えて帰ろうとする今西刑事に対し、桐原老人は俳句の探題箱を見ていくようすすめ、次のような行動を取ります。

桐原老人は手を鳴らした。

Kirihara clapped his hands together to call for a servant.

原書では「手を鳴らす」という行為に対して何の説明も加えていませんが、英訳ではそれが使用人を呼ぶための行為であることをちゃんと説明しています。もちろん日本人にはこうした説明は不要ですが、日本語の本と英語の本を読み比べることで、改めて文化や習慣の違いを意識することになります。

以上のように、補足説明の配慮が各所でなされていますが、それでもやはり限界はあります。主人公が列車の中で駅弁(box lunch)を食べるシーンがあります。問題は、弁当を食べた後の行動です。

今西は弁当の蓋をすると、丁寧に紐でくくった。

He put the lid back on the box and carefully tied the string.

駅弁がどんなものであるか知っている日本人にとっては、別になんということもない描写です。駅弁の多くは、蓋の上からひもで結んであるからです。ですが、駅弁を知らない外国人がこれを読んだらどう思うでしょうか。box lunchを食べた後、箱をわざわざ入念にひもでしばるとは一体どういう意味なのかと、とまどう人も多いのではないかという気がします。

もっとも現在では、odenもshiokaraもekibenもWikipediaに載っています。またbentoはすでに国際語となりつつあるようです。インターネット検索すれば、どんな外国語でもたいていはその意味がすぐわかります。今では、昔のように英語で詳しく説明する必要はなく、かえってそのまま日本語で記述したほうがわかりやすいのかもしれません。こうした日本文化を、翻訳の中でどこまで説明するかという点は、今後判断が難しくなるところだと思います。

日本語を活用している例

英語圏の人にとって理解しにくい言葉に説明を加えている一方で、日本語をそのまま活用している部分もあります。人名につける「さん」や「先生」などです。"Imanishi-san"、"Sekigawa-sensei"という具合です。またこれらについては特にその意味は説明していません。

そのほか、日本語の隠語をそのまま使用している個所もあります。英語版では1ページ目、死体が発見されるシーンです。

「おい、マグロがあるぞ」
 彼はうわずった声で叫んだ。
「マグロ?」
 運転手はぎょっとなったが、やがて笑い出した。

He flung himself into the engineer's cab, shouting, "Hey, there's a tuna."
"A dead body?" the engineer laughed.

「マグロ」とは、隠語で鉄道事故の死体を意味します。原書では、「マグロというのは、轢殺死体のことである」と断っています。英語版の方が、地の文で記述するよりスマートなやり方で「マグロ」の意味を説明しています。もちろん、英語の"tuna"には別に死体という意味はありません。ここは単に「死体がある」で済ませてしまってもいいのですが、訳者はあえて「マグロ」という言葉を活かしています。「○○さん」と同様、日本語の雰囲気を伝えたかったのでしょう。

誤訳

「誤訳のない翻訳書はない」と言われます。この本も例外ではありません。非常に細かい点ですが、誤訳を一点指摘しておきます。主人公の今西刑事の上司として、冒頭部分で「捜査一課の黒崎一係長」が登場します。英訳では、これは"Chief Inspector Kurozaki Hajime of the Homecide Division"となっています。訳者は、「黒崎一係長」を「黒崎一(はじめ)・係長」と解釈したわけです。

ところが、これは間違いです。これは、「黒崎・一係長(いちかかりちょう)」と読むべきなのです。警視庁の課は、いくつかの係に分かれています。この場合、一係というのはおそらく、殺人事件を担当する「殺人犯捜査第一係」のことでしょう。この部分にはルビが振られていないので、「はじめ係長」と読めないこともないのですが、別の個所では、黒崎のことをちゃんと「警視庁捜査一課一係長」と紹介しています。これは日本人でも誤読しておかしくないところで、特に警察組織について詳しくない人だと、そのまま「はじめ係長」と読んでしまうかもしれません。「一体何の係長か」という疑問を持たないと気づかない点です。

なおここでは「捜査一課」を"Homicide Division"(殺人課)と訳しています。これはアメリカの警察の呼称にならったものなのでしょうが、別の個所では"First Investigation Section"と訳しているところもあります。どうやらこれは、Homicide Division(捜査一課)の中にFirst Investigation Section(一係)があるという意味のようですが、なぜHomicide Divisionに統一しなかったのか、不思議と言えば不思議です。

Inspectorの解釈

誤訳と決め付けることはできませんが、もう一点気になったことがありました。タイトルにもある"Inspector"の解釈です。

Inspectorは、特に警察組織で使われる場合には解釈が難しい語です。イギリスの警察では警部補に当たりますが、アメリカの警察では組織によっていろいろです。たとえばサンフランシスコ市警では刑事ですが、ニューヨーク市警では警視正になります。ところが、日本の警察では警部の訳にInspectorを当てているので厄介です。

この本はニューヨークの出版社から出版されています。そこでInspectorはアメリカ式だと仮定すると、ニューヨーク市警式の警視正では階級が高すぎるので、刑事と考えるのが自然です。ところが、よくよく読んでみると、そう単純に決め付けられない点もあるのです。

原作では主人公の今西刑事の階級は巡査部長(普通はSergeant)ですが、彼宛ての手紙の中では、なぜか彼の階級が"Police Inspector"と"Chief Inspector"の二通りに訳されています。上記の通り"Police Inspector"は日本の警察では警部を意味し、事実この本でも他の個所では警部の訳語として使われています。一方"Chief Inspector"はイギリスの警察では警部ですが、アメリカ式の場合、文字通り単にInspector(刑事)の長という意味とも取れます。さらに、別の個所では"Chief Inspector"が警視庁の「係長」や捜査本部の「捜査主任」の訳語として使われており、今西がその指示を受けるという描写があったりします。

結局、今西が警察内でどのようなポジションなのかが明確にされていないのです。ストーリーを追っていけば、今西は第一線の、それほど地位の高くない刑事であることはわかるのですが、具体的な階級は最後まであいまいなままなのです。もちろん、こうしたことはストーリーの中では小さな話かもしれません。ですが、警察を舞台とする小説である以上、主人公の階級や職掌については明確にしておいて欲しいと思います。

少なくとも、タイトルの"Inspector"は「刑事」という意味だと私は解釈しましたが、英語圏の読者は"Inspector"という語から普通どのような連想をするのか、聞いてみたい気がします。

まとめ

以上、重箱の隅をつつくような指摘をしてきましたが、そうした点はこの本の中では些細な話に過ぎません。訳者は難しい出雲弁もちゃんと訳しており、食事の際の「一本つけますよ」 という主人公の妻のせりふなども、"I'll warm up some sake."と実に的確な訳を当てています。

やさしく、読みやすい英語なので、あまり英語に自信がない人でも苦労せずに読めると思います。難しい単語も少なく、凝った構文もあまり見られません。これはもとの日本語がやさしく、短文が多いことも関係しているのでしょう。また会話にも、スラングはほとんど出てきません。アメリカ人などにとっては会話が上品過ぎると思えるかもしれませんが、日本人にとってはわかりやすくて好都合です。日本語で『砂の器』を読んだことのない人にもおすすめできます。

砂の器/Inspector Imanishi Investigates

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